「カタハネ」(PC版)の感想

 

 

 

 

■サマリー


大変いい作品であった。あくまで百合作品としてプレイした感想であるため、登場人物のうち「アンジェリナとエファ」「クリスティナとベル」そして彼女たちが関わるストーリーについて語る。

 

もちろん他の登場人物や、彼女たちが関わらない部分のストーリーもみな魅力的であった。以下はいわゆる「クロハネ」「アンルート」「ココルート(のうちアンジェリナとベルが関わる部分)」についての感想となる。
クロハネ編:クリスティナとエファの話。
アンルート:アンジェリナとベルの話。
ココルート:いわゆるトゥルーエンド。
のうち、クロハネとアンルートは大変良かったが、ココルートに関してはいささか不満をいだいている。しかしそれはあくまで全ての伏線を回収するルートとしてまとめ上げることそのものが難しいがゆえに、広げた風呂敷のうちたたみきれなかった部分が大きく目立ってしまうことが主要な原因である。ストーリーとしての整合性に関して言えば特に不満はなく、またクロハネとアンルートが十分満足できるできだった故にココルートへの期待があまりに高まりすぎたことも手伝う。
プレイしてよかったと心から思っているし他の人に勧めたい気持ちは十分になるが、しかし真エンディングと呼ぶべきルートなのであろうココルートにおいて「アンジェリナとエファ」「クリスティナとベル」それぞれの関係性が綺麗に収まっていたかと言われると決して肯定はできない。


■作品についての基礎知識


既プレイであれば別にこの部分を読む必要はない。私自身の思考の整理のために記載するものである。
・現在を描く「シロハネ」と、過去を描く「クロハネ」の2編から成り立っている。とかくと両編が地続きのような印象になるがそうではなく、クロハネ編でははるか昔の、実際に起きた出来事が語られる。シロハネ編では、クロハネ編で語られた一連の話が伝承され物語となっている現代の話であり、その伝承された物語を元に脚本を書き、劇を演じるのがメインのストーリーとなっている。雑に例えるのであればクロハネ編は桃太郎やお供の視点から語られる実際の冒険と戦いの物語で、シロハネ編は桃太郎の脚本を再解釈して演じる劇団の物語、ということになる。
・時間軸を大きく隔てるシロハネ編とクロハネ編は完全に別個の物語のはずであるが、「ココ」なる登場人物か鍵となり2つの物語がリンクしていく構成となっている。
クロハネ編では未来に語り継がれることのなかったいわば裏の歴史が描かれ、シロハネの世界線に残っているのはあくまで伝承されてきた歴史である。そしてシロハネ編はその語り継がれた歴史を再解釈・改変して新たな劇として成立させようというストーリーである。ということでシロハネ編内の演劇の脚本、シロハネ編の世界に伝わる話、クロハネ編で語られる実際の過去、がそれぞれ大小あれど異なる内容になっている。
・「人形」という、超長寿超高性能AI搭載ロボのようなものが存在している世界線であり、上述の「ココ」は人形であり、その長い時を生きる性質故にクロハネ、シロハネ両辺において完全な同一人物であり、つまりプレイヤーを除き両編の物語の観測者となる唯一の人物となる。(便宜上人形をロボットと表現しているが、一部のファンタジーにおけるエルフのような、人間と規範及び生活を共有しているが寿命や一部の習性だけが異なる異種族生命体の概念が近い。)
・ココ以外にも、シロハネ編ではベル、クロハネ編ではエファという人形がそれぞれ登場する。この二人の見た目は全く同じだが、同一の存在かどうかはストーリーが全て明かされるまで判明しない。ココについてはストーリーの比較的早い段階から同一の存在でまず間違いないであろうことが描かれているが、エファ/ベルについては同一の存在であるかどうかは最終盤に至るまで名言されない。
・クロハネ編での物語はシロハネ編では悲劇として語り継がれているが、シロハネ編における演劇の脚本はその史実とは異なるハッピーエンドな物語となっている。

百合ゲーとして語る場合、クロハネ編では小国の女王であるクリスティナと隣国から王宮へ遣わされた人形であるエファの関係が、シロハネ編では劇中でクリスティナとエファの役を演じるアンジェリナとベルの関係がそれぞれ描かれることになる。(重ねての説明であるが、シロハネ編の「劇」とはクロハネ編の事実が長い時を経て語り継がれてきた物語であり、役名は同一であるが劇のストーリーは必ずしも一致しない)
つまり↓こんな感じ。ハートで結んであるところが百合なところである。

関係性の図

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使用したアイコンはこちらより。
https://twitter.com/jment/status/743226578620948480?s=20

ストーリーを3周することで全てが明かされる構成になっている。
1周目ではクロハネ編におけるクリスティナとエファの関係が中心となっており、クロハネ編とシロハネ編がどのようにリンクするのかが描かれる。
2周めでは、クロハネ編の話には変化がなく、シロハネ編におけるアンジェリナとベルの関係が物語の中心となる。
3周目はココをファクターに、2周目まででは描かれなかったクリスティナとエファの物語の結末、更にエファとベルがどのように関係しているのか、またそれらが明かされた上でアンジェリナとベルの関係はどのようなものになるのかといったところが焦点となる。いわゆるトゥルーエンドに相当すると思われる。
これは私がプレイした場合の話であるので、人によって変わるかもしれない。また、一周目を「クロハネ編のストーリーを追いかけるとともに世界観を理解するためのもの」と捉えているが、これは百合作品としてプレイした感想を書く際にその位置づけにすると話を展開しやすいと判断したからであり、実際は他の人物(ワカバとセロ。男女の組み合わせ)のルートであるらしい。
ともかくこれを元に、
①.1周目の、クリスティナとエファについて
②.2周目の、アンジェリナとベルについて
③.3周目について
の3つに分けて感想を述べていく。

 


■第一章:クロハネ。あるいはクリスティナとエファの話についての話。

 

当章の内容に関してはネタバレは(あんまり)存在しないはずです。ネタバレになるような要素について語ると長くなりすぎるから。

まず前提として、クロハネの物語は悲劇として語り継がれている。当然クロハネ編のストーリーは重く苦しいものとなる。
舞台は「赤の国」「青の国」なる2つの大国の間に位置する小さな国家「白の国」。クリスティナは白の国の女王だが、実際の政治は側近が行い、彼女自身は人形の調律師(メンテナンスを行う職業)として描写される。大国に挟まれた小国、という立ち位置から想像できる通り、赤と青両国の様々な策謀により白の国の未来は明るくない。
そんな白の国に、赤の国から遣わされた人形がエファである。彼女は非常に精緻に作られた、演劇の能力に特に秀でる人形であり、また赤の国の国宝として扱われている。3国の平和を願う記念式典として、調律師である白の国の女王の元に赤の国の人形であるエファ、そして青の国の人形であるココが遣わされ劇を演じる。しかしその式典の裏には、白の国を転覆させようと隣国の勢力が暗躍している。というのがクロハネ編の主なストーリーである。
先述の通りクロハネ編は悲劇である。つまり結末が明るくないものであることが決まっている中、クリスティナとエファの関係性が進んでいくさまを見続けるというある種拷問のような構造をしている。なんてことをしてくれるんだ。
二人の関係性における主な要素は、それぞれの属する国が異なりお互い容易に相手と一つに慣れない身分である、という部分である。白の国の女王であるクリスティナはもちろんのこと、赤の国の国宝であるエファにしてもこのまま相手と二人で後生幸福に暮らします、などという展開にはどれだけの理由を重ねたところでなりえない。
二人の関係性の障壁となる要素のほぼ全てがそれぞれの国を背負った立場であるからというところからくるものであり、「女同士であるから」という要素は一切介在しないし、「人間と人形であるから」あるいは「調律師と人形であるから」というファクターについてもほとんど存在しないこと明記しておきたい。作中で語られる「調律師と人形の関係は主従にも近いもの」という、この作品そのものが提示する世界の規範すら超越し繋がり求めあう姿からは、二人の関係があくまでお互いを自らにとって対等な存在と認めていることにより成立しているということを思い知らされるとともに、定められた悲劇の中にありながらそれでも幸せな結末を迎えてほしいと祈らせるだけの力に満ちていた。
悲劇として描かれたクロハネ編がどんでん返しの大団円など迎えるはずもなく、二人が迎える結末は、少なくとも私の知る限りの一般的な価値観に照らし合わせて、幸せなものではありはしない。ゲームデザイン上クロハネは遠い過去に起こった変えようがない話であり、ゲームシステム上も選択肢によるルート分岐は存在しない。このゲームを起動した時点で、--あるいは起動していなかったとしても--クリスティナとエファが迎える結末は動かない。私に出来ることはただその結末を受け入れることか、もしくは全てを忘れることの2つに1つでしかなく、そして一度このゲームをプレイしてしまった以上私は前者を選ばざるを得ない。それでも。たとえどのような終わりを迎えることになったのだとしても。この二人が出会えてよかったと、仮にほんのひとときであったとしても心を通わせることができてよかったと、そう思わせるだけの世界がそこには描かれていた。

この先は蛇足になるが、作品としての構成上、クロハネ編には伏線と思しきフレーズが非常に多い。それはクロハネ編そのものが迎える結末への伏線であり、時に遠い未来の物語であるシロハネ編への伏線であり、あるいはシロハネ辺で演じられる劇中の伏線である。過去と未来とが交錯するという作品の作りの上で、幾多の伏線が張り巡らされそれが回収されゆくさまは大変に読み応えのあるものであり、間違いなくこの作品の魅力の一つと言える。何周かテキストを読み直している現在でも気付かされるものがあるほどに技巧が凝らされているところは世間の評判通りの名作である所以だろう。そんな中でも私が最も圧倒され、素晴らしいと感じたのが以下のシーン。
※以下、作中より抜粋。エファの一人称視点。
エファ「よ、よく……わからないのです、が……」
姫様に導かれて指を動かすうちに、それはまるで自分自身の身体に触れている気分に。
これまで触れたりすることのなかった場所が、熱く、疼く。
クリススィナ「教えて、エファ。もしや、あなたも感じているの、ですか?」
エファ「は、はい。……なんと、なく……同じような……」」
※以上、作中より抜粋:
エファの一人称視点であり、姫様とはクリスティナのことを指す。"そういうこと"の最中の台詞であるのだが、純粋無垢でその手の知識に疎かったエファがクリスティナとその手の行為を重ねその手の事柄を知っていくてゆく様子が、「感じる」の常用的でない意味合いを理解するという形で表現されている。当然上記の3センテンス内だけに全てが収められているのではなく、その前後そしてここに至るまでのストーリーを通した文脈的意味合いが付加された上でこのやりとりが登場することにその真価があるのであり、ここまでの全ての文章がこのやりとりの伏線と言って過言でない。そういった理由からここでこの魅力の全てを伝えることはできないが、このやりとりは私の心を大きく揺さぶるものであり、ここに至るまでの物語を眺めた上でこれらの台詞に到達した際の臨場感と高揚を味わうためだけにこのゲームをプレイしたとしても決して損はしないと言い切れるほどに、私はこのフレーズに感動し涙した、ということをここに記しておく。

 


■第二章:アンルート。あるいはアンジェリナとベルの話についての話。


ここについてはネタバレを書きます。なぜならそうしないと語れないから。

ゲームをプレイするに際し、アンジェリナとベルの話を読む前には否応なくクロハネ編を読むことになる。アンジェリナとクリスティナ、ベルとエファはそれぞれ大変に見た目が似ており、またシロハネ編の演劇の中でアンジェリナはクリスティナ役を、ベルはエファ役を演じることになる。アンジェリナとベルの関係を語るにおいてはこの、それぞれがそれぞれの役を演じる、という点が大変にややこしく、しかし外せない要素となる。
語り継がれてきたクロハネの物語を再解釈・改変した演劇。この劇中においてクリスティナはアンジェリナ役を、ベルはエファ役を演じる。劇の脚本に則っている限り、メタ的な視点からクリスティナはアンジェリナと同一人物であり、ベルはエファと同一人物であるということになる。
対して劇中の話ではなくシロハネ編の登場人物の生い立ちを考えた場合、クリスティナとアンジェリナは別人である。転生だったりなんだりが存在しうるファンタジー作品であれば同一人物である可能性も議論されるべきであるが、人形の存在を除き世界観は今我々が生きている世界とほぼ差異がない。故に彼女らが同一人物であるという可能性は、排斥することは不可能だがあえて考慮に入れる必要はないものと断定する。一方でエファとベルは人形であるため、長い時を生きられる。そのため同一人物である可能性がある。この可能性がある、というのが特に厄介で、(すべてのエンディングを見終わるまでは)エファとベルが同一人物であるかどうかは名言されない。つまり、劇中ではなくシロハネ編としての、アンジェリナとベルの物語は、以下の4通りの解釈が成り立ちうる状態で進むことになる
A.エファとベルは同一人物であり、彼女からアンジェリナに向けられている感情の起源は、かつてクリスティナに向けられていた感情である。(ベルが見ているのは"クリスティナとうり二つである"アンジェリナであってアンジェリナ個人に帰依する要素は重要ではない)
B.エファとベルは同一人物であるが、彼女からアンジェリナに向けられている感情の起源は、かつてクリスティナに向けられていた感情ではない(「エファ」はあくまで過去の存在であり、現在を生きる「ベル」はアンジェリナを愛している。その感情はエファが抱いていた一切の感情やアンジェリナとクリスティナとの一致性、そしてクロハネ編で描かれたエファとクリスティナとの関係性とは関係なく存在している)
C.エファとベルは別の人物であり、ベルからアンジェリナに向けられている感情の起源は、かつてエファからクリスティナに向けられていた感情である。(シロハネ編におけるアンジェリナとベルはクロハネ編におけるクリスティナとエファの二人の鏡写しもしくは焼き直しであり、作品全体としてクリスティナとエファの関係を描くための舞台装置の役割が主である)
D.エファとベルは別の人物であり、ベルからアンジェリナに向けられている感情の起源は、かつてエファからクリスティナに向けられていた感情とは関係がない。(シロハネ編の劇中でクリスティナとエファを演じているという点以外に置いてクリスティナとエファの物語、アンジェリナとベルの物語は完全に独立しており、ベルはベルという単一の存在として、アンジェリナという個人を愛している)

上記4パターンはそれぞれ、
・いわゆるメタ的な、トップダウンからシナリオを作成しシナリオ及びキャラクターをデザインする上での観点
・実際のプレイ時に我々が目にする、作中におけるキャラクターの心情の動き
の2要素から、彼女らの関係性が、(クリスティナとエファがそうであったように)お互いがお互いを一つの存在として認め合う関係性であるのか、それともクロハネ編のクリスティナとエファを単になぞるだけの焼き増しあるいは鏡写しであるのか、という点に繋がってゆく。どれであればよくどれが良くないなどという二元論的な価値観に当てはめるつもりはないが、私個人の気持ちとしてアンジェリナとベルの関係はクリスティナとエファの物語から完全に独立した彼女ら二人の関係であるべきだという願いを抱かずにはいられない。
それはもちろん悲劇であったクロハネ編をそのまま追いかけるようなことにはなってほしくないという気持ちもあるが、クロハネ編で描かれた物語が「相手を一つの存在として尊重し、認め、愛し合う二人」で会った以上、シロハネ編の二人についても他の誰かをなぞっているのではなく、彼女が彼女として彼女である彼女に感情を向ける物語であってほしい、そうあるべきである、という読み手としての強い感情からくるものである。つまるところ上記4通りのうちDであってほしい、だめならBくらいでなんとかしてくれ、という祈りを強く抱いたまま、私は物語を読み進めることとなった。
クロハネ編に対し、シロハネ編の物語は大変に明るい。多くは語らないがシロハネ編の主人公的立ち位置にして劇の脚本家であるワカバのキャラクター性によるものであり、また現代の世界で劇を演じるという設定上、クロハネ編で存在したような国家や身分に依る諸々の制約が登場人物間で存在しない、という事情によるものでもある。
クリスティナとベルにしても、クロハネ編であったような国を背負った立場の違いのような重々しい要素は存在せず、寿命があまりに異なる人形と人間とが共に生きていけるのかという点、そして共に生きる者として私はあいてにとって相応しい存在なのかという葛藤に焦点が当たる。(寿命の差異は視点によっては大きな障壁となりうるが、クロハネ編と比べれば些細なものである。あるいは寿命差を些細なことと感じさせるためにクロハネ編が存在していたのかもしれない)
そしてストーリーの明るさを反映するかのように、シロハネ編における二人の関係は非常に良好である。劇に挑戦し演じようとする者同士として若干の衝突がありながらも仲を深める様は、クロハネ編の重苦しい雰囲気からはうってかわって微笑ましく希望に満ち溢れた印象を受ける。喜ばしいことである。
しかしそれはあくまでシロハネ編のみを見た場合の話であり、クロハネ編の話を知ってしまっているプレイヤーの目線からは、エファとベルが同一人物なのではないかという懸念(上述の通り私の心情としてはこの可能性は懸念と形容するに相応しい)を抱いた状態でストーリーが進行して行くこととなる。どれだけ強い感情で結ばれたとしても、どれだけ互いが互いを想っているように描写されたとしても、ベルからアンジェリナに向けられた気持ちが本物であるかどうか(本物という表現はあくまで上記のうちDパターンであることを願う人間にとっての感覚でしかないが)は誰も、何も保証してくれない。仮にベルとエファが同一人物であったとしたら、彼女がかつてクリスティナに向けた想いと今アンジェリナに向けている想いとの整合性はどのように成立しうるのか。どちらも本物の想いとして成り立ちうることは重々承知の上で、それでもエファはアンジェリナに対して、ベルはクリスティナに対して永劫に一途であってほしいという祈りを捨てられない。そんな心理状態で読まされるこの話は二人の仲は順調に進むのに目が離せないものになっており、仮に製作者がこれを意図してクロハネ編を挿入しているのだとしたら相当に意地が悪い。
さて、そんな2周め、アンルートの結末であるが、(以下は致命的なネタバレを含みます)まずストーリー中、寿命差からくる両者の葛藤を払拭する台詞として、アンジェリナからベルに対して送られた「あたしの気持ちは、あなたの横を通り過ぎていった人たちようには変わらないと思いなさい」という台詞がある。これは長い時を生きる人形、ベルに比して僅かな一生しか生きることのない人間であるアンジェリナが、それでも僅かな一生として過ぎ去るのではなく、共に時を生きる存在としてあるのだという決意表明、あるいは愛の告白である。この台詞を切欠に二人の距離は更に縮まり、結ばれることになる。
そしてシロハネ編のストーリーは演劇で締めくくられる。すでに語ったとおり劇中においてアンジェリナはクリスティナ役であり、ベルはエファ役。少なくとも劇を演じている限りは、(その結末がクロハネ編と異なるものであったとしても)アンジェリナとベルの関係はクリスティナとエファの関係をなぞったものに他ならない。
しかし最後で、ちょっとしたアクシデントからアンジェリナとベルがアドリブを挟まざるを得なくなる。そのアドリブ中の、本来であれば劇の脚本にはない、ベルからアンジェリナへ向けられた台詞が以下である。
「……ワタシの横を通りすぎず、立ち止まり、ただ一人の人形として認めてくださる姫様のために……」
※演劇の本番中であるため、ベルからアンジェリナへの二人称は「姫様」である必要がある。
この台詞のポイントは2点。
まず、この台詞が先に触れた、劇を外れた場面でのアンジェリナからベルへの台詞から引用されていること。つまり、間違いなくクリスティナとは別人であるアンジェリナから、ベルに対して贈られた言葉に対して、ここではベルからアンジェリナへの返答になっている。
そしてもう一つは、劇の脚本ではなく、アクシデントから生じたアドリブとしてこの台詞が放たれていること。アンジェリナはクリスティナ役であり、ベルはエファ役という劇の世界から完全に離れ、アンジェリナとベルの二人の間でかわされた台詞であるということ。
ここに至るまでのストーリー上も、ある程度は、この二人はクリスティナとエファの写し身であるような印象を与えてきた。つまりクロハネ編の二人に対応する形での二人であるという構造になっている。それを打ちやぶり、アンジェリナとベル二人の関係が、劇の脚本(=クロハネ編の世界)から完全に独立した形でここに成り立つ。紛れもないアンジェリナその人からベルへ向けられた気持ちへの返答として、メタ的な制約となっていた演劇すら超越した形で、他の誰でもないベルからアンジェリナへ届けられる。
物語上はアンジェリナからベルへの告白の返答であり二人の仲を繋ぐ言葉であり、メタ的観点からはこの二人がクロハネ編で描かれた世界から完全に独立したものであるということを示す言葉にもなっている。この締めくくりの場面で、このような形で、この台詞が使われることがどれだけ美しいかわかると思う。
更にいうと、クロハネ編のストーリーは、敵も味方も多くの想定外の事態に見舞われながら話が進んでいくものになっている。つまり「想定外の出来事の積み重なりがあり、それが最終的な結末へと繋がる」ことが、クロハネ編全編を通して証明されているのだ。クロハネ編のストーリーそのものではなく、ストーリーによって証明されたことをこそなぞるこの幕切れはあまりに素晴らしい。掛け値なしに、このゲームのプレイ全体を通して最も印象に残った場面である。
もちろんゲーム全体としては3週中の2周であり、明かされていない真実や回収されていない伏線は残っているけれど、そんなことがどうでも良くなるほど、それまで抱いていた不安を全て消し飛ばす綺麗なエンディングだった。
未プレイの諸氏においては、ほんの僅かでも興味を持ったのであればこのルートをプレイすることを強く勧める。

 

 


■第三章:ココルート。あるいはトゥルーエンドについての話


当然ですが重篤なネタバレを多分に含む。もしカタハネを未プレイで、これからプレイしようとしう気持ちがあるのであればまず先にカタハネを3周クリアし、その上で以降の文章に目を通すことを強く望む。

トゥルーエンドにもかかわらず不満を抱いていると書いたのにはいくつか理由がある。
史実(クロハネ編)に対する劇のシナリオ、史実上のキャラクターに対して現在のキャラクター、史実上のキャラクター同士の関係に対して現在のキャラクター同士の関係……などなど、考慮の必要な要素があまりに多く、完成度が非常に高いものであったとしても、それが100%に至らない限りは綺麗にさばききれなかった部分の綻びが大きく目立ってしまう。大筋としてはもちろん、細部についてもまとめ上げられたになっているとは思うのだが、過去と現在、そこに加えて劇が複雑に関わってくるというストーリーの特性上、どうしても描写の足りない部分が目立ってしまう。
加えて2周めのアンジェリナとベルの物語に対する私の評価が(おそらく過剰に)高く、ココルートがやや蛇足であると感じたという事情もある。
第二章で語ったとおり、クロハネ編のエファとシロハネ編のベルが同一人物であるかどうかは明かされないのだが、ココルートではついにエファとベルの関連が明らかになる。エファとベルは別人なのだが、ココという存在をキーとしてエファの記憶石(人間にとっての記憶野、外付けHDDのようなもの)がベルの手に渡ることで、ベルが自分自身の記憶とエファの記憶(=クロハネ編の記憶)双方を持った状態となる。それを皮切りとし、クロハネ編の物語がシロハネ編へと受け継がれ、副次的に諸々の伏線や謎が回収されていく、というのがココルートの大筋となる。しかし、少なくともクリスティナとエファ、アンジェリナとベルに視点を絞った場合にはどうにも展開が急で描写が不足している印象が否めない。
大雑把に展開を書くと、
エファの記憶石がベルの手に渡り、記憶が共有された結果ベルの人格がエファに乗っ取られる。

エファに乗っ取られているためアンジェリナを姫様(クリスティナ)と認識する。

クリスティナの「私はアンジェリナではなくクリスティナであり、私が愛しているのはベルである」という言葉により、ベルが人格を取り戻す。

ベルの中にエファの記憶も存在する状態となる。アンジェリナもそれを受け入れ、以降のストーリーが進んでいく。
といった流れである。これだけであればそれなりに纏まっているようにも見えるが、まずクロハネ編では、共に生きることは叶わないがエファの記憶の中にクリスティナは永遠に存在し、またクリスティナの記憶の中にエファは永遠に存在する、といった趣旨の結末を迎えている。にも関わらず、どのような心境の変化を経て、エファはベルの人格を乗っ取ってまでクリスティナを求めるほどに変わってしまったのかについては何も語られない。
また、人格を取り戻したベルがどのようにして自らのうちに存在するエファの記憶と向き合い折り合いを付けたかや、アンジェリナがそのことについてどう感じ、どのように心境を変化させたかといった部分についても掘り下げられることはない。
第二章であまりにも長らく語ったとおり、アンジェリナとベルの関係がクリスティナとエファを単になぞるだけのものであるのかどうかは非常に大きな要素のはずである。にも関わらず、記憶石という存在からベルとエファの境界線が曖昧になったこのルートにおいて、(物語の整合性ではなく)アンジェリナの、ベルの、そしてエファの感情がどのように移り変わっていったのかがわからない。
アンルートにおいて「ワタシが最初に好きになった人は……アンジェリナさんです。だから、ワタシは……たとえ他に好きな人ができても……あなたしかダメなんです」なる台詞が存在する。しかしベルとエファの記憶が完全に入り混じった状態では、記憶を真とするのであれば最初に好きになった人はクリスティナで、物理的な肉体を真とするのであれば最初に好きになったのはアンジェリナということになる。
要するにベルの中にベルとエファの二人分の記憶が存在している事に関する掘り下げが少ない。ベルもエファも、アンジェリナも、どういった立ち位置にあるのかがわからない。何故、エファの心境に変化が生じベルの人格を乗っ取る程になったのか。なぜそこから記憶の共有にとどまるほどに落ち着いたのか。ベルのアンジェリナに対する感情はどうなっているのか。アンジェリナは、ベルの中に二人分の記憶が存在することをどう思っているのか。
ストーリーの展開上、最終的にこうなった、という描写は当然存在する。が、ここで重視されるべきはその過程であり、ことアンジェリナとベル両名の心情が碌に描かれることがないまま進んだことに対しては非常に強い不満を覚えている。アンルートの終わり方があまりに綺麗だったのに対して、ココルートにおいては描写が足りなすぎる。
想像し解釈しろと言われればそれはそうなのかもしれないが、これらの展開についてはベルとアンジェリナの関係を定義づける上であまりに重要な要素であり、読者各人の解釈に委ねるべき箇所ではない、と強く主張したい。

不満ばかり書き連ねてしまったが、話の展開としてはそれまでの伏線が回収され、ここまで描写されていなかった場面が加わることで同じストーリーにも関わらず新たな側面が顔を覗かせるなど見事な点が多く、またベルの人格がエファに乗っ取られ、そこからアンジェリナの手によりベルが自身を取り戻すまでの一連の流れについても、テキストを送る手が震え、またテキストを送るためにクリックするいう動作にさえ分単位の時間を要さねばならなくなるほどにのめり込んだ。シロハネとクロハネ、長い時を隔て関わり合う2つのストーリーを破綻なくまとめ上げる流れは綺麗だと思ったし、群像劇形式の一人称視点である都合も手伝って、自然な形で台詞と地の文いずれにも伏線が貼られているのも見事だと思う。
だからこそ、このゲームの中で私が最も好きな二人であるアンジェリナとベルについて、もっと掘り下げてほしかった。
完成度が100%に近づけば近づくほど、不気味の谷よろしく足りない部分がどうしても目立ってしまう。ココルートについては、その傾向が特に顕著になってしまったのだと思う。発売元の会社は今はもう無いらしく、つまり何らかの形での補足も永遠にされることはない。私の祈りはあくまで私だけのものであり、それを十分に補強してくれる要素は、ココルートの中には存在していない。それでも、アンジェリナとベルの二人が、望む形で、幸せな幕引きを迎えられたことを心から願う。
……と思ったらリメイクされたりとかなんか色々やってるらしい。なんとかしてくれ。

 


■終わりに。


「アンジェリナとエファ」「クリスティナとベル」についてのみ語ってきたが、それ以外の登場人物であったり、彼女らが関わらない部分の展開についても数多くの魅力が詰まった作品である。とはいえアンルートがめちゃくちゃに良かっただけに、その後にプレイしたココルートにどうしても納得できない自分がいる。プレイする順番が逆であればこのような感情を抱くこともなかったのかもしれないが、それはもはや叶わぬ願いである。
冒頭で述べたとおり、大変いい作品であったと思う気持ちは変わらないし、少なくとも、ここまでの字数を割いてこの感情を書き残したいと思わされる程度には心動かされた。出会えてよかったと心から思える作品の心当たりはそう多くないけれど、カタハネは間違いなくそんな一作として数えられる。
カタハネ及びそれに関わった全ての人々への心よりの感謝の気持ちと、アンジェリナとベルの二人が幸福であるようにとの祈りをもって、結びとする。