『ボーはおそれている』の感想だとか考察だとか

以降の文章は『ボーはおそれている』の内容に関する、いわゆるネタバレを含む。
もし映画を未視聴で、その上でこの記事にたどり着く程度に興味があるというのであれば、この記事の閲覧は映画体験を大きく損なう可能性が高い。
まずはボーはおそれているを観、その上で改めて読んでいただければと思う。

 

 

 

『ボーはおそれている』(原題:Beau Is Afraid)なる映画を観た。

監督があの『ミッドサマー』(でどこまで通じるか分からないがミッドサマーでググると概ね分かると思う)の人だからという理由で観に行ったのだが、それはそれは難解な内容であったがために、私自身の思考の整理を兼ねてここに感想であったり考察を書き記す。

本来このような行為は少なくとも2度鑑賞してから行うべきであると思うのだが、あんな映画(あえてこのような表現をする。観ていただければおわかりいただけるだろう)を短期間に2度も観るのは流石の私でもきついものがあるからして、一度観たのみの記憶で書くこと、それがために映画の内容について正しくない描写が含まれる可能性のあることをご容赦頂きたい。

また私はあまり映画界に明るくない。本作はいくつもの映画のパロディーを含んでいるらしいが、それらに関する言及は不可能である。それについても了承いただきたい。

 

まずこの映画の成り立ちについて。主人公であるボーは少なくとも精神科に通ってカウンセラーを受ける程度には、病んでいる人間である。冒頭では彼が強迫性障害を患っているようなことが描写される。そんなボーが強力な向精神薬を処方される、というのが始まりのシーンだ。

物語は基本的に彼の一人称視点で描かれるのだが、これがこの映画の最大の要素であり、同時にこの映画を語ろうとした際に非常に厄介な要素である。

既に述べた通りボーは精神病を患っている。ボーの一人称で描かれる物事はすべて彼の感覚を通したものであり、従って必ずしも真実であるとは限らない。加えてボーの住居が非常に治安の悪い場所にあり、治安の悪い人物が登場するのでギリギリ現実に有り得そうなものから突拍子もない描写、いわゆる認知の歪みのようなものまで含まれている。

さらには作中の人物たびたび、まだボーが名乗っていないにも関わらず、彼をボーと呼ぶ。これに関し真っ当な説明を与えようとすると、彼らあるいは彼らの言動はすべてボーが生み出した幻覚や幻聴である、ということになる。ボー自身の幻覚であるからボーがボーであることを知っている。当然だ。

また、それぞれの出来事の空間、時間的連続性も曖昧である。ひと続きの物語ではなく飛び飛びに、そして場合によっては時間軸さえ曖昧に様々なシーンが描かれていく。

つまり映画を観るにあたっては映画内の出来事1つ1つについて、まずはそれが事実であるかどうか、事実であるとしたらボーの主観であるのか客観的なものであるのかを考える必要がある。そしてその上で物語上どのような意味を持っているのかを、伏線のように思われるものや示唆的なもの、意味深な描写からナンセンスなものまでどっぷり向き合わねばならない。さらに前後のシーンと照らし合わせてそれらがどのように影響しあっているのかも常に考え続ける必要がある。

真実ではなくボーの主観を通し、示唆的な描写を主とし、導線のみを見せてストーリーそのものは明確に語らない。この映画は明らかに悪意を持ってこういう作りにされている。それによって観る側はボーの視点に立ち、ボーが見る景色の隅々まで観察し、彼の思考を追い、何が置きているかを理解しようとする。

既に述べた通りボーは精神を患っている。

そんな彼の視点に立ち、彼の見る景色を観察し、彼の思考を考察する。

この映画はそれを、観たもの全員にやらせようとしているのだ。

底抜けない悪意である。

かつて私はドグラ・マグラなる小説を読もうとし、途中で放り投げたことがある。

インターネットに詳しい諸氏におかれてはドグラ・マグラがどのような作品であるかについては存じていると思うため詳細は割愛する。

単純にあれと比較するつもりは無いが、ドグラ・マグラは小説であるからして自身のペースで読み進めることができ、ページを止めて考えることができる。もし耐えられなくなったら(私のように)途中で放り出すことも可能だ。

対してこの『ボーはおそれている』という作品は映画である。従って物語は作った側のペースで進む。ゆっくり考える暇もなく次々とシーンが流し込まれる。途中で抜け出すこともできない。(そりゃ途中退室することは可能だが、そんな事するやつはそもそもこの映画を観に来ないだろ)

これが悪意でなくてなんだというのだ。

既に述べた通りボーは精神を患っている。観たものをそんな彼に寄り添わせ、彼の世界でもって侵食し、彼とともに最期を迎えさせる。それがこの映画の目的であり、すべての描写、すべてのシーンがそのために作られている。

観終えた私の第一の感想がこれであり、今もそれは変わっていない。

この映画がどのようなものであるかについての話は以上である。

 

 

ここからは映画の各シーンについて考察する。

なお私は監督でも関係者でもなく、一度映画を観ただけの人間であるため必ずしも正しいものではないし、あくまで私がそう考えたというだけのことであることに留意いただきたい。

先に示した通りこの映画で描かれる物事はすべてボーの感覚を通したものであり、従って必ずしも真実であるとは限らないことに気をつける必要がある。

 

 

まずはボー自身についての描写。

冒頭ではボーがカウンセリングを受けていること、母と仲良い訳では無いこと、実家に関するなにかが彼の精神疾患の原因であることが示唆される。

続くボーが帰宅してからの場面では、ボーの住まいとその周辺についてが描かれる。度を越して治安の悪い場所に住んでいるのは事実だとしても、その描写の細部は明らかにおかしい。

ボーが精神を患っており母親との関係がうまく言っていないこと、この映画の描写がボーの一人称であること、そしてそれは必ずしも事実ではないことを示している。いわばこの映画のチュートリアルのようなものである。

以降の描写はすべてこれらの事実が前提となって描かれている。

 

ストーリー全体の流れとしてはボーが母の死を知らされ、実家に帰って葬式に立ち合おうとする。

ところが車に轢かれてしまい、車の持ち主を名乗るロジャー夫妻の家で療養することになる。

色々あってその夫婦のもとを離れると、次は森の中で生活する劇団のもとに見を寄せる。

そこから紆余曲折あってついに実家のある村に帰り、母の葬儀場にたどり着く、というものだ。

支離滅裂な説明であるが実際そうなのだから仕方ない。

 

車に轢かれてからロジャー夫妻の家で暮らすシーンについて。

ここは夫妻の家などではなく精神病院のような場所であり、彼が接したのは医者や患者であるように思える。

ロジャー夫妻を含む各人物の明らかに正気でない描写や整合性のない言動、途中で「入る母親も会えないのか?」「そういう契約ですから」というやり取りが壁の向こうから聞こえてくるところからそのように判断できる。

そもそも自身が外科医だからと言って車で轢いた人間をそのまま自宅に連れてきて部屋を貸し与え治療するなど、仮に映画内の世界観であったとしてもあり得ることではない。

そしてボーの過去に関する回想が入る。子供の頃母に連れられクルーズで旅していたボーはエレインという同い年くらいの子供に出会い恋をするが、突然エレインの母親が彼女を連れて船を降りると言い、引き剥がされるような形で別れを迎える。別れ際に彼女は「また会いましょう」と書いたブロマイドを渡す。

この回想については真実であると思う。冒頭で彼がこのブロマイドを眺めているシーンがあったこと、そして回想シーンはそのままボーと母親が昔から上手く言っていなかったことやボー自身がコンプレックスを有する一員になっていることを示しているということが論拠である。

続いてロジャーの娘であるというトニに、ここを出て帰りたいと話していた実家に連れてってやると嘘を付かれた上で連れ出されてドラッグをキメさせられる場面と、眼の前でトニがペンキを一気飲みしてそのまま死んでしまう場面が描かれる。

これらもやはり比喩的なものであると思う。

私の解釈であると念を押した上で述べるが、トニはボーが殺している。

時系列は不明であるが、トニかトニによく似た少女を殺している、あるいは少なくとも殺しかけている。

回想の場面でボーがエレインとの初恋の思い出に関しコンプレックスを持っていることが描かれており、トニもまた幼気でどこかエレインと重なる、ボーの興味を引くに十分な描かれ方をしていることがこの補佐である。

 

続いて森の中で生活する劇団に出会い公演を見るシーン。

ロジャー夫妻家を抜け出したボーは森で生活している劇団に匿われ、彼らの劇を観賞することになる。

劇を見る中でボーは主人公と自身を重ね夢想に耽る。

流浪人であるボーは放浪の果てに居場所となる村を見つけ、家族も作る。ところが村は災害に見舞われ一家は離散する。再びの放浪の旅を経て彼はようやっと息子と再開し抱擁を交わす。息子との会話の中でボーは自身が童貞であったことを思い出し、そこで息子など居るはずがないと我に返る。

ここで注目したいのは、劇中のナレーション(映画中ではなくボーが主人公と自身を重ねた夢想の中のナレーションのことである。ややこしいな)が「妻とセックスして子供が生まれた」と名言していることである。

単純にボーが夢想から現実に帰ってきた瞬間であると解釈すればそれだけであるが、この映画の作りからして単にそれだけではあるまい。

性行為に対する屈折か、幸福な家庭に対するコンプレックスなのか。

また序盤では流血だったりいわゆるグロテスクなシーンを、そして中盤以降はセクシャルなシーンを主軸に描いており、この観劇周りがその転換点であるように思う。

そしてボーが観ていた劇は突然の殺人鬼の乱入で中断される。彼はボーがトニを殺したと思っているロジャーがボーを追うために放った刺客である。(書いてて頭が痛くなってくるが本当にそうなのだ)

この殺人鬼はボーの裏人格、もしくは幻覚のようなものなのではないかと思う。

この場面で殺人鬼がボーを追っているのは、劇中の描写では先に書いた通り"トニを殺したと思ったロジャーがそう指示したから"である。しかし実際のところはトニに危害を加えた自分は死ぬべきだという自罰の念が、"殺人鬼が自分を追いかけて殺そうとしている"とボー自身に感じさせているのではないだろうか。

後の場面でもう一度この殺人鬼が登場するが、そちらの場面では彼がボー自身でないと成り立たないと思っている。これについては後で改めて語る。

 

殺人鬼から逃げるようにしてようやっと、ボーは故郷の村にたどり着き母の葬儀場へと向かう。葬儀は既に終わっていて、ボーは一人、人の居ない葬儀場を歩く。

ここではボーの母がどのような人物であるかについて、故人を偲ぶ遺品やムービーの形で語られる。一人で会社を起こし大企業まで育てた敏腕で、その会社は様々なものを扱っている。彼女の会社から生まれたヒット商品もいくつか紹介されるのだが、ボーの回想と照らし合わせるとそのどれもが彼に対する愛情の押しつけによって生まれた品であることがわかる。

つまりここはここまでの電話での会話や回想シーンで示唆されてきた「ボーと母親は上手く行っていない」というのが具体的にどのようなことなのかを示す場面だ。

対話ではなく自身が愛情だと信じたものをそのまま押し付け、自分がこうあって欲しい子供であるように矯正しようとする、というのがボーの母親のボーに対する主な接し方であったのだ。

作中で何度も、ボーは聖母マリア像を大切そうに扱っている。母が与える愛との対比を描いているようにも見えるが、その実無償の愛、キリスト教で言うところのアガペーなど実際には存在しないのだということを描いているように感じる。

 

ここで葬儀場に突然来客がある。なんと彼女は初恋の相手エレインで、彼女は先月まで母の会社で働いていたという。(ロジャー夫妻の家に居たときのシーンでボーはそのことを知っていたのだが)

そのまま流れでボーとエレインはセックスするのだが、ボーは母親から、彼の父は心臓が弱く初夜で射精した瞬間に死んだのだと言い聞かされ続けていたのだ。快楽と恐怖の両方を抱えたまま行為を続けるボーだったが、なんと絶頂と同時に死んだのはエレインの方だった。ギャグかよ。ミッドサマーでも全裸の男性が一人天を仰ぐシーンがありそこでだいぶ笑ってしまったのだが、あれを思い出した。

唐突に訪れたかのようにみえるエレインの死であるが、大きな意味を持っていると思う。

幼い頃から母に刷り込まれ続けた、父は心臓が弱く初夜で射精した瞬間に死んだからお前もそうなるという脅し("脅し"である。後の場面での描写からして事実ではない)とそこからくる性行為への恐怖。ここはそれらを乗り越え、母の支配、愛情の押しつけからの脱却をついに迎えた場面のはずだったのである。エレインの死さえなければ。

これは流石に考えすぎかもしれないが、エレインも実はボーが殺したのではないだろうか。

セックスして射精したら死ぬのだという脅し、母の支配が生み出す死の恐怖に果たして本当にボーは打ち勝ち射精できるのか? 作中での彼の描かれ方からして明らかにノーである。ではどうするのか。エレインを殺すのだ。(騎乗位でやってるのでエレインをなんとか止めるしか無い)

重ねていうが映画で描かれる「射精した直後に彼女が突然死んだ」というのは「ボーの一人称による、彼がそうだと考えている」真実だ。

ここまでのボーに関する描写からすれば、射精しそうになったが父親が射精した瞬間に死んだことを思い出してパニックを起こす。どうにかエレインをどかして射精を止めようとし、殺意の有無は置いておいてその結果エレインが死んだ、という方が実際にどうなるかを考えたときに適切ではないだろうか。

ボーは「母の支配からの脱却をついに迎えようとしたがエレインの死という突然のどうしようもない外的要因で叶わなかった」と思っているが、客観的には「結局ボーは母の支配から逃れることができずエレインを殺してしまった」ということになる。

……と考えるとエレインはボーが殺したと考えても筋は通る。というのがエレインの子に関する私の考察である。

 

続いてエレインを殺してしまい混乱しているボーの眼の前に突然、死んだ母が姿を表す。

母とボーは会話を交わすが、ここはほとんど一方的に母がボーを罵倒する。自分がどれだけの愛情をボーに注いだか。それなのにボーは何も自分に返してはくれないのだと。

そしてここまでに何度か描かれた、ボーが幼少の頃からずっと見てきた夢が実は実際の記憶であったことが明かされ、ボーはその夢の中では行くことを拒んだ屋根裏へと、母に急かされるようにして向かわされる。

 

屋根裏にいたのは死んだと聞かされていたボーの父親であったが、彼の姿は巨大なペニス怪獣へと変貌する。(もう何度目か分からないが、説明していて頭が痛くなってくる。しかし実際にそうなのだ)

ボーは襲われかけるが突然、以前登場した殺人鬼が窓から乱入し怪獣を滅多刺しにし、なんとか助かる。

この場面についてはボーが父親から性的虐待を受けた、あるいは受けかけたことのメタファーであると思う。そして屋根裏に居たのは父とボーだけであったのだから、そんな父親を滅多刺しにした殺人鬼はボー自身以外ありえない。勿論映画の描写では窓を割って外から乱入してきたが、そんなことは現実に起こりようもない。

父を滅多刺しにしてなんとか逃げたのはボー自身であり、それだけのショッキングな出来事を経たのであればその記憶を覚えていなかったことも、精神を患ったことも納得がいく。

母親が「父は心臓が弱く初夜で射精した瞬間に死んだしお前もそうなる」と性的な事柄からボーを引き離そうとしていたというのも、自らの夫が息子に手を出そうとしたことがあったという前提に立って考えると得心がいくのではないだろうか。

この場面はエレインとの初恋と並んでボーの原体験となっているシーンなのだろう。

ボーと母親の関係、そしてボーと性的な事柄との関わりがどのように歪んでしまったのかをメタ的にたっぷりと描く。いかにもこの映画のやりそうなことではないだろうか。

 

屋根裏での出来事を"思い出した"ボーは再び母と言い合いになり、そのまま母の首を締めてしまう。殺すところまではいかなかったもののボーはそのままその場を逃れるようにして近くの川にあったボートへと乗り込む。

ボーと母の死について。

何度目かになるが、ボーはやはり母も殺しているのではないだろうか。

母はシャンデリアが落下して頭を潰された状態で死んでいることが発見されたと伝えられる。母の葬儀に出るために実家に帰ろうとしたところでロジャー夫妻や劇団に出会う、というのがストーリー全体の流れだ。

母は、頭を潰された状態で発見されている。

この場面でボーは母の首を締めている。首にははっきりと、自身の指の後が痣として残っている。

そのまま母を殺してしまったと仮定した場合に、その事実から逃れるために最も早い方法は? そう。首より上をすべてぐちゃぐちゃにしてしまえば良い。顔がわからないから母かどうかわからない。自分でつけた首の痣も消える。あとに残るのはシャンデリアの落下というどうしようもない外的要因の事故で死んでしまった、おそらく母だが本当にそうだとは断言できない誰かの死体だ。

時系列が合わなくなるかもしれないが、このストーリーは、前段としてボーが母を殺しその首から上をぐちゃぐちゃにしていたところから始まったとしても成立する。なぜなら彼は精神を患っており幻覚や幻聴にさいなまれることもあり、従って母との会話はすべて彼の想像内の出来事である可能性があるからだ。

そして彼自身、母を殺したという記憶を封印したまま物語が進行するのだ。

これもまた突飛な想像であるかもしれないが、私はやはりボーが母を殺したという方が自然であるように思える。

 

そして最後のシーン。

ボートに乗ったボーがたどり着いたのは法定だった。

彼は被告人として、検察とその側に立つ母親の糾弾を受ける。

ここでの母親からの糾弾もやはり、自身が注いだ愛情に応えてくれなかったことについてである。その内容には明らかに理がない。これまでと同じく、母の一方的な愛情を何故受け取らなかったのかをひたすらに追求してくるのだ。

これらはボーは罪悪感から法廷に居るような感覚を抱いていることのメタファーではないだろうか。自分はどうすればよかったのか。今となっては注がれたものに応える術も応える先もなくなったボーの苦しみが描かれている場面であるように思え、だからこそやはりボーが母を殺したのではないだろうか、という考えが強くなる。

 

そして母の追求を躱しきれず、ついにボーの乗っていたボートがひっくり返る。最初はもがくようにボートが揺れ動いていたがそれもやがて沈黙し、動かなくなったボートと水面だけを映して映画は終わる。

激動続きだったのが嘘のように静かな終わりである。

私はミッドサマーはハッピーエンドであったと思っている。不幸になった人間もいたし万人がこれでよかったと思える結末ではなかったが、少なくとも彼女の笑顔は、まさに憑き物が落ちたかのような表情に見えたのだ。

本作も本質は同じところにあるのではないだろうか。万人がこれで良かったと思うわけではないだろうが、少なくともボーはもう何も恐れることはなくなった。

この映画のオープニングはボーの出生時だと思われる場面である。そこでボーは息をしていない状態で水(羊水)から取り上げられ、看護師は奔走、母親は半狂乱と生まれた瞬間から苦しみを背負っている様が描かれる。

そしてこのエンディング。最後にはボーは彼の望む通りすべての面倒事を放り投げ、水底に還っていくかのように安寧を手に入れたのだ。