「君たちはどう生きるか」考察ないしは感想

本記事は内容に『君たちはどう生きるか』の内容に関する、いわゆるネタバレを含む。
もし映画を未視聴で、その上でこの記事にたどり着く程度に興味があるというのであれば、この記事の閲覧は映画体験ひいては人生を大きく損なう可能性が高い。
まずは君たちはどう生きるかを観、その上で改めて読んでいただければと思う。

 

 

宮崎駿氏(以降敬称略)の映画『君たちはどう生きるか』を観た。

 

現時点では2回観た。2回しか観ていない、といったほうが良いかもしれない。
極端な表現をするのであれば宮崎駿の墓標に刻まれるべき遺作であり、そしてまた遺書でありその宛名は私だった。正確に言えば全ての宮崎駿に魅せられた人間に宛てられたものであり、そのうちの一人が私である、と思う。
これまでの人生で出会ったあらゆる芸術作品の中で一番良いものであったし、それはこれからもそうなのではないだろうか。私がこの先何年生きるかは分からないが、仮にこれを超える作品に出会うことがあったとしたら私は相当な幸せものであるだろう。
私は別にジブリ作品に明るくはない。時たま金曜ロードショーでやっているのを観る程度だったし、ここ最近はそれすらもしておらず、何年か振りに見たジブリ作品がこの、君たちはどういきるかであった。そして映画館でジブリ作品を見たのはゲド戦記以来だ(ゲド戦記宮崎駿氏の作ではなかったと思う)。
宮崎駿の顔は知らないし、名言も多分数えるほどしかわからない。
しかし、今まさに私の視覚聴覚その他諸々の映像作品として表現しうるありとあらゆる感覚は宮崎駿氏に作られた世界のそれになっている。お気に入りの作家の小説を読み終えた後に脳内の思考がその作家の文体でなされるということが往々にしてあるのだが、映像作品でこのような体験をしたのは初めてだ。
特に熱心なファンというわけでもない私でさえもこうまで引き込まれたのだからこの作品に込められた熱量、あるいは覚悟には凄まじいものがある。

 

君たちはどう生きるか』というタイトルは裏を返せば「私はこう生きた」ということであり、主人公である牧眞人はメタファーとしての宮崎駿その人である。ストーリーは、端的に言えば主人公である眞人少年の成長物語だ。
色々とうまくいかない現実世界に辟易していた眞人。青鷺に誘われるように、あるいは無理矢理に異世界に足を踏み入れる。
そして異世界で沢山の物に触れ、実母の死というトラウマを乗り越え、継母と和解し、最後には元いた世界に戻ってくる。

 

異世界での出来事のいくつかについて考える。
異世界でまず出会ったのは『これを学ぶものは死す』(原文覚えてないけどこんな感じ)と記された門で、事故的にではあるがそれを開く。
開いたのは自身の意志ではなかったにしてもそこに惹かれたのは事実であり、その後のキリコからの「死の臭いがぷんぷんする」という評についても、身内である母を亡くした過去ではなく眞人自身の生に対する執着のなさを指し、この世界で死ねるならそれも良い、くらいの考えを持っているのではないかと感じられる。
その後門を開いたところをキリコの若き日の姿に助けられ、彼女から異世界での生活を学ぶことになる。流れるように進んでいくが1つ1つの出来事に大きな意味があり、そしてここにこそこの映画の本質があるように思う。
キリコから学び、生きるため魚に自らの手で刃を入れ、夜は使用人を模した人形に庇護される。わらわらから生命の誕生の何たるかを教わり、悪しき存在だったはずのペリカンの死と今際の言葉から対立する相手にも理由があることを知る。忌み嫌っていたはずの青鷺とは旅を通じて友好を深めた。そして己を殺したはずの火の力によって生き、他者を救う(そして救われたものの中に眞人自身も含まれる)母の姿に触れて、元の世界で母を亡くした事実を受け入れる。
こうした出来事を通し生に触れ死に触れ他に触れ自己に触れ、人々が、生命がどう生きているのかを知る。そして眞人自身がどう生きるかについて考える。
そして眞人は母に案内される形で継母、ナツコとついに対面する。
ここでナツコから眞人に向けられた言葉は「大嫌い」そしてその後に「帰りなさい」。それを受けて眞人は「帰ろう、ナツコ母さん」と応える。(一字一句覚えていないが、概ねこのような発言だ)
作中で最も大きな意味を持つであろう、そして眞人の人生の転機となったであろう出来事だ。
この場面でのナツコの声音、そして表情の機微。「大嫌い」はともすれば怒りが込められた激しいもので、そして続く帰りなさいは慈愛に満ちたようなものになっている。
「大嫌い」は眞人が思うナツコの発言。眞人自身の心中を鏡映しにしたナツコの言葉であるように思う。対して「帰りなさい」は、こんな危険な場所に来てはいけない。愛する息子にそうして欲しくないというナツコの想いからくる発言だ。
「帰りなさい」に込められたナツコの気持ちに気づくことで、「大嫌い」が眞人をここから返すため、眞人のために言った言葉なのだと言うことがわかる。果たしてナツコの想いは眞人に通じ、眞人は作中で初めてナツコを「母さん」と呼んだのだ。
長い長い大冒険の末、ようやっと眞人は、ナツコの、自分へ向けられた気持ちが掛け値なしのものであることに気づくことができたのだ。
そして眞人は異世界を作ったという大叔父に出会い、彼の後を継いで異世界の管理者になるか、あるいは元の世界に戻るかの選択を迫られる。異世界は管理者が居なければ滅び、かつ今の管理者は長くないことも示されるが、それでもなお元の世界に戻ることを選ぶ。
この辺りでなんか宮崎駿くんが考えたちょーすごい裏設定とか世界観の匂わせが入るがきっとファンサービスみたいなものだろう。
色々あって異世界は滅ぶが、重要なのはそこではなく眞人自身が、その意志でもって(例えこの世界が滅ぶとしても)元の世界に戻り、そしてこの先も生きていくことを選んだことである。どうしようもなく惹かれた場所でありある種の理想郷であったかもしれない異世界を捨て、現実に戻るのだ。
エピローグでは眞人一家が無事戦争を生き延びたことが記される。火に飲まれた世界をしかし眞人は生き延び、これからも生きてゆく。それだけ分かれば十分ということだろう。
また、作中を通し一貫した風景描写の美しさに触れておきたい。葉脈の一本一本を描くであるとか花びらの微細な形を描くといったことはしていない。しかし、写真よりもよっぽど、実際に存在する風景そのままの姿を捉えている。そこそこ田舎に育った私が見てきた自然そのもの姿だ。
宮崎駿氏の世界を捉える力の全てを注いだ結果か自然に対する観念の表れかあるいは主人公の心情の変化によらずそこにあり続ける風景の賛美として描かれたのか。私の知るアニメは愚か実写の映像作品、あるいは記憶の限りの絵画や写真と比しても群を抜いて美しく心に残るものであった。

 

さて、『君たちはどう生きるか』というタイトルは裏を返せば「私はこう生きた」ということである。
眞人は宮崎駿だ。彼がどう生き、その中でどんな経験をし、どのような哲学を形成したかが描かれている。
もちろんこれらの出来事が全て実体験だとは思わないし、現実世界での、母の死や父の再婚といったことでさえも宮崎駿自身の経験ではないと思う。
そうかも知れないがそれが事実であるかどうかはどうでも良い。眞人が比喩表現としての宮崎駿であるように、彼の体験も全て比喩表現に過ぎないからだ。
大切なのは彼が(比喩表現として)どのような人生を辿り、どのような思考を経て、どのような哲学を持つに至ったかということである。
故にこの映画は宮崎駿の遺作であり、その墓標に刻まれる作品なのだ。存命の人物に対して使うべき言葉ではないとは思うが、しかし観終えたときに間違いなく私はそう思ったし、そう思わせるだけの作品だった。


さて、ここまで語ってようやっと私は、表題である「君たちはどう生きるか」に触れることができる。

大体の作品において、主人公は感情移入の対象である。観客は主人公の視点を通して作中世界を体験し、主人公の心情を知り、多かれ少なかれ主人公と自身を重ねる。
しかしここまで語った内容において私が主人公と重ねていたのは宮崎駿である。私ではない。
なぜならこれは宮崎駿の手による、宮崎駿の映画だからだ。
「私はこう生きた」という作品として考えた場合、上述の通り眞人は宮崎駿であり、作中の出来事は「宮崎駿にとっての」出来事で、現実世界も異世界も「宮崎駿にとっての」ものである。

 

本当に?

 

君たちはどう生きるか」。君たちとは観客を、つまりは私を指す。
ということはこの映画の主体は私であるべきであり、主人公も私であるべきである。
君たちはどう生きるか」という作品として考えた場合、眞人は私であり、作中の出来事は「私にとっての」出来事で、現実世界も異世界も「私にとっての」ものだ。
さてこの視点に立つと何が起こるか。
結論から述べれば、眞人にとっての異世界は、宮崎駿が作った世界観であり宮崎駿が作った映画だということになる。
なぜならこれは宮崎駿の手による、私の映画だからだ。
非現実的な世界はそのままアニメーションの世界であり、不思議な出来事の起こるジブリ映画の世界そのものだ。
眞人ほどではないが現実に対して言いたいことの1つや2つある私は、何らかのきっかけでもって宮崎駿の作る映画に触れ、その世界に惹き込まれる。
宮崎駿の映画の中で生に触れ死に触れ世界に触れ感情に触れて心を揺さぶられ、その体験を自らの哲学を形成する要素の1つとし、しかしその理想郷の創造主の跡を継ぐことはせず、元いた現実へ戻ることを選び、そして現実へと戻ってくる。
映画を観る前よりもちょっとだけ成長して。
私はアニメーターでも映画監督でもない。従って宮崎駿の世界を継ぐことはできない。しかし彼の作り出した世界、そこで得た沢山のものと共に生きていくのだ。
眞人が大叔父の作った異世界からそうしたように。
故にこの映画は宮崎駿の遺書であり、その宛名は私になっている。存命の人物に対して使うべき言葉ではないとは思うが、しかし2度めに観終えたときに間違いなく私はそう思った。


宮崎駿を主人公とした、宮崎駿のための、遺作としての映画。
観客一人一人を主人公とした、私達のための、遺書としての映画。
この2面性成り立たせこの上ない形で仕上げた、まさに集大成としての作品だ。
先に述べた通り別にジブリ作品にさほど明るくはない私でさえも、この映画の世界観に惹き込まれ、感情を突き動かされ、見終える頃には自らの血肉の一部としていた。
宮崎駿の世界観、これまでのジブリ作品を知らなかったとしても、ただこの1作のみでもって自身の世界に巻き込むことができるという自信があったのだと思うし、そうできるだけの力が込められた作品になっている。
構造としてあまりに美しい。
大々的なプロモーションを行わなかったのも、人に誘われるのではなく大なり小なり自らの意志で観ることを決めて鑑賞して欲しいという思惑があってのことでは無いだろうか。

 

青鷺については深く語るまい。宮崎駿にとっての青鷺が誰であるか私は知らないし、敢えて知ろうとも思わない。
私には青鷺がいるだろうか。わからない。けれど人生の幕を引くその時に、青鷺の顔が思い浮かんだら良いなと思う。